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田舎暮らしを楽しみながら、農村の未来を考え、実践していきたいと考えています。
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    関東では花見が盛んのようですが、
    こちらは今月末ころ。
    まだ梅も咲いていません。
     
    しかし
    こちらでも早春の楽しみはあるのです。
    今年の冬は例年になく寒かったせいか
    4月になって
    やっと顔を出したフキノトウ(バッケ)。
     
     
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    昨日、天ぷらでいただきました。
     
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    せっかくだから
    チクワも。
    さらにタマネギとニンジンでかき揚げもつくりました。
     
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    ついでに
    バッケ味噌も。
     
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    熱々ご飯に最高です。
     
     
    今朝は天ぷらの卵とじに。
    彩りとしてカンゾウの若芽を入れました。
     
     
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    (2)明治から昭和まで
     
     町並み形成に大きな影響を与えているのは大火である。岩谷堂の中心部は享保16年(1731)から明治39年(1906)の間に11回の大火に見舞われている。
     19世紀中期以降の大火は規模が大きく、中でも安政6年(1856)4月6日の大火は、焼失戸数が511戸に達している。横町で出火した火災は一日市町、中町、川原町、六日町を次々に焼き尽くし、さらには人首川を渡り、南町、餅田村まで燃え広がったといわれる。土蔵も120棟が焼失、死者は10人に上った。
     明治5年(1872)には六日町から出火し、342戸が焼失している。南町の多聞寺は南町一帯に大伽藍を形成していたがこの時に被災し全焼。再建されないまま現在に至っている。明治39年(1906)の大火は油(灯油)が水路に流れ出し大火となった。川原町、中町、六日町の450戸が焼失した。また、明治37年(1904)から39年(1906)までの3年間には5階の大火が発生している。これ以降大正、昭和と大火災の記録は見られない。
     火災のたびに町は新しい町並みを造っていった。岩谷堂の商人は物資や蓄財を守るため、苦労しながら火災に強い町屋や土蔵を建設したようである。聞くところによれば荒縄の端材の果てまでも大切にしたという。現存する町中の土蔵は、その殆どが明治゙39年以降に建造されたものと考えている。
     写真2-2は大正14年(1925)の岩谷堂である。土蔵造りの店舗が印象的ではあるが、町屋は妻入りと平入りの混在がみられる。
     
    写真2-2 大正14年頃の岩谷堂六日町  (江刺郡志より)
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    表2-1 大火の歴史
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     図2-3は昭和6年(1931)に作成された岩谷堂町案内図である。町役場をはじめとした公共施設や道路の位置が今とは違っている事がわかる。特に図の上側(東側)の米里、遠野方面へ向かう道路は、要害の崖を避けて人首川対岸の向山へ渡るルートとなっている。
     また、この図では黄色で示されているのが町の範囲である。江戸期の町割りと比べてもその範囲を超えていないように思われる。
     
    図2-3岩谷堂町案内図(昭和6年) 江刺商工会議所復刻版
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     昭和30年頃の航空写真を見ても昭和6年当時とさほど変化はない。
    写真2-3 昭和30年頃の江刺
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    ( 右上の杉林が松岩寺、人首川の上に南町、左下の工場らしき建物の場所は現在は甚句祭りが行われる児童公園。中右端には旧江刺病院(現ホテルニュー江刺)が見える)
     
     図2-4は現在の岩谷堂周辺の地形図である。赤い線で囲まれた範囲がおおよその江戸期の町割りを示している。高度成長期以降、町は江戸期の町割りの範囲を超え拡大し始める。初期は東西へ拡大したが、現在は大きな住宅地が建設された南側に広がっている。
     
    図2-4 江戸期の町割り範囲と現在の町並み
     
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    3.まちづくりへの思い
    (1)まちづくりの原点
     1)駅へのあこがれ
     東北本線上野青森間が開業したのが明治24年(1891)である。その前年明治23年(1890)に一関盛岡間が開通している。その中に新駅として水沢駅が開業する。実は本来であれば江刺に新駅ができる予定であったらしいのだが、当時の江刺の人々は「汽車の煙が稲に悪い」として駅の設置を拒否。北上川西岸の水沢へと追いやった。当時は環境問題にそれほど積極的だったとは思われないので、未知の物への拒否反応と経済的な力関係が大きかったのだろう。余談だが、水沢でも未知の物への対応に苦慮して寺地の外側に駅を建設した。そのため乗客たちは松林と墓地の間を通らなければならず、夜には街灯もないので駆け足で逃げるように灯りのある町並みへ向かったらしい。
     以後江刺は東北新幹線が開通するまで駅とは無縁の町となってしまった。時代が下がると、地域経済は駅を中心に発展するようになる。そのため江刺の人たちは水沢駅との連絡に腐心するようになる。大正5年(1916)には胆江軌道が設立され、鉄道馬車を一日市町本社から、中町、六日町と停車して水沢駅まで走らせるようになる。この鉄道馬車は昭和3年(1928)には廃止されるが、同じ頃川原町にキングタクシーが営業を始めている。
     
    写真3-1 町中を走る鉄道馬車(大正年間)    (荻田耕造他著 写真集(明治大正昭和)江刺 1983 より)
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    写真3-2 キングタクシー (昭和10年頃)   (前掲書)
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     戦後になるとバス路線が充実し、バスが水沢駅との連絡の中心となる。県南バスの江刺バスセンターは中町に有り、昭和40年代頃まで多くの乗降客でごった返していた。
     
    写真3-3 岩手県南自動車(株)岩谷堂営業所(昭和27年:1952頃)   (前掲書)
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     昭和60年(1985)東北新幹線水沢江刺駅が開業した。この駅は全額地元負担の請願駅として新幹線開業後に追加設置された。私の記憶が正しければ、当時の江刺市長をはじめ多くの市民が提灯行列をしたはずである。正確には旧水沢市の羽田町(旧江刺郡)に設置されたわけであるが、北上川を越えることもなく、岩谷堂には東北本線水沢駅より近い場所だった。しかも首都圏に直通となるのである。江刺の人たちからすれば長年の思いが叶ったのである。
     その当時は水沢市民と江刺市民が駅名に「江刺」の文言を入れる入れないで論争になっていた。政治決着で駅名に「江刺」の名が入ることになった。江刺市民の長年の思いが優ったということだろうか。

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     2)知名度の無さ
     学生時代は東京で過ごしたが、出身地を聞かれ「江刺」と言うと、北海道出身と勘違いされた。岩手県の「江刺」より北海道の「江差」の方が格段に有名なのだ。高校の友人は北海道出身者のまま大学4年間を過ごしている。「江刺」の場所を説明する場合「東北本線水沢駅で降り、そこからバスで20分の所に岩谷堂がある」などと少々ややこしくなってしまうのだ。このことは私だけでなく、江刺出身者の60歳代から40歳くらいまでの世代の共通認識としてあり、故郷の知名度を何とか上げたいという思いが町づくりに向けられてきたと思っている。これがやがては駅名問題と大河ドラマの誘致および「えさし藤原の郷」の建設へと繋がっていく。
     
    写真3-4 えさし藤原の郷(政庁)
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     3)地域経済の地番沈下
     江戸時代の江刺は北上川舟運による物資の集散で栄えていた町だったのだが、昭和40年代後半から凋落傾向を見せていた。少々古いが昭和61年(1986)の商工会議所資料によれば江刺の民力度は0.711であり、買い物客が隣接する隣接する旧水沢市や北上市へ流出していた。旧水沢市は1.58で当時の求心力は強力だった。さらに日本全国で見られるように江刺近郊でも郊外に大型店が出店し、人の流れが中心市街地から遠のくようになっていった。それなりの努力をしてきたと思われるが、時代の流れに対応する力と資金が欠けていたためか、やがて中心商店街はシャッター街と化してしまった。
     
     これまでまちづくりの原点を3つ上げて述べたが、細かく見ればさらにたくさんあるだろう。だが、この3点は旧江刺市民にとって大いなるコンプレックスであった。駅がない市などと揶揄され、弱い経済地盤を皮肉られ、知名度の無さに落胆する日々。いつまでもこれではいかん、何とかしなければとの思いを常に持ち続けていたはずである。かつて駅への連絡をつけるために様々な手を打ってきたことでもわかるように、まちづくりに関して他市町村より積極的であるのはこのような理由があったからだと考えている。
     

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    (2)「えさし藤原の郷」開演から学ぶ
    1)思い違い
     平成5年(1993)に「えさし藤原の郷」が開園した。全国に珍しい平安期のテーマパークであるとともに、NHK大河ドラマ「炎立つ」のメインロケ地を目的として建設されている。開園までの様々な苦労は酒匂俊明(さかわとしあき)著「炎のメモリアル」(1993.5:(株)ぎょうせい)に詳しい。
     大河ドラマの影響もあって開園と同時に年間50万人を超える観光客がこの地を訪れるようになる。この時に商店街の人たちは町中にも人が訪れるだろうと期待していた。「えさし藤原の郷」と町までは1kmと離れていなかったからだ。しかし、見事に裏切られ、皆無と言って良かった。
     観光客は多くが団体客で、見学が終われば花巻温泉に一泊し宴会するコースが設定されていた。しかしこのコースには町中見学は含まれていなかった。「えさし藤原の郷」に花巻温泉を経営する国際興業が出資しているからではなかった。ここで初めて町中に魅力がなかったこと、商店街が誘客のための努力を怠ってきたことに気付き始める。その反省から一部の若者を中心に町中点検が行われた。この結果土蔵が多いことに気付くことになる。
     
    写真3-1江刺の町並み(平成4~5年頃)
    写真奥の小高い丘(左側)が岩谷堂城趾。
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    (3)まちづくり団体の動き
     昭和の末から平成9年までの間に、まちづくり団体がいくつかできてきて活動を開始している。この中から(株)黒船(以後黒船)に関わって行く団体を簡単に紹介する。
    1)まちづくり研究会
     民間の任意団体。活動期間は昭和63年から平成2年(1988~1990)。江刺のまちづくり全体を考える目的で活動した。会員に青年会議所会員(JC)が多くいたことから、若者にまちづくりの芽を植え付けたと考えている。具体的な活動としては、人首川の河川改修で伐採されようとしていた明治記念館脇のケヤキの保存運動。
     
    写真3-2 明治記念館脇のケヤキと人首川
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    2)梁山泊グループ
     江刺にあった唯一の温泉、大岳温泉を再生し運営したグループ。活動期間は平成元年から平成6年(1989~1994)。後に黒船メンバーとなる4人が参加していて、出資して会社運営していくことを学習している。この温泉を運営する会社は解散したが、建物は現在デイサービス施設となっている。
     写真3-3 現在の大岳施設
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    3)まちづくりデザイン市民会議
     民間の任意団体で、活動期間は平成7年から9年(1995~1997)。町中点検を行い改めて土蔵の多さに気付いたグループ。この結果から蔵を使ったまちづくりを模索し始める。この会員の多くが、後の黒船メンバーとなっていく。
     
    4)NPO法人イーティーシー
     岩手県建築士会江刺支部の有志がまちづくりの勉強会を始め、江刺のまちづくりを模索。活動期間は平成7年(1995)から現在も続いている。現在は黒船のまちづくりを技術面から支援を行うほか、岩手県南地域のまちづくりを支援するコンサル型のNPOとなっている。NPO法人化は平成13年(2001)から。
    写真3-4 NPO法人イーティーシー  コミュニティガーデン事業の例
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    5)まちづくり研究塾
     旧江刺市が「えさし藤原の郷」の運営とロケ対策を行うための組織作りを目的に、市民に呼びかけて結成した団体。市職員、JCメンバー、一般市民が参加し、江刺のまちづくりに知恵を出し合った。この中から一部のJCメンバーが「えさし藤原の郷」の町並み部分で飲食、お土産部門を営業する(株)清衡企画を設立し、現在に至っている。
     
     まちづくりデザイン市民会議は、えさし藤原の郷を訪れた観光客が町に流れてこなかったことから改めて町中点検を行うと、観光客の興味を引くような施設が町中にないことを知る。これでは町中を訪れるひとがいないのは当たり前と反省。ただ土蔵が多く残されているので、土蔵を活用しながら残すまちづくりを模索するようになる。
     黒船設立直前の平成9年(1997)5月初め、第1次まちづくり構想を作成し当時の江刺市長に説明を行う。その内容は現在の蔵町モール付近に土蔵を集積し町中観光の拠点とし、運営を3セクで行うというもの。この会談は話途中で返されることになる。中身が絵空事であること、3セクの運営は無理というのがその理由である。こんな事を考えるより家業を頑張るべきだとの忠告もあった。後日談として市長は課長連中を集め「ああいう輩とは付き合うな」とのお触れを出したとか。以後しばらくは市との関係がギクシャクすることになる。逆に市民会議は市を当てにせず、自分たちの手で自分たちのできる範囲でのまちづくりを目指していくことになる。

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  • 07/24/12--19:47: 江刺のまちづくり(8)
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    4.黒船の設立とまちづくりの実践
    (1)(株)黒壁との出会い
     江刺のまちづくりに大いなる影響を与えた滋賀県長浜市のまちづくり会社(株)黒壁(以後黒壁)との出会いは偶然だった。平成8年(1996)、後に黒船の社長となる綾野氏が市、商工会議所、農協のメンバーと一緒に、えさし藤原の郷でロケが行われているNHK大河ドラマ「秀吉」のキャンペーンで名古屋を訪れたとき、ガラスを軸にまちづくりを行っている黒壁の存在を知る。綾野氏はその足で当時黒壁の専務だった笹原氏を訪ねるが、アポなしのため会えずに返されている。その後何度も長浜を訪れている。やっと会えたときにセミナー「秀吉大学」への参加を勧められる。当時黒壁は「北近江秀吉博覧会」(4月~11月)を実施していた。綾野氏はその全てに参加した後、笹原氏に江刺の町を見て欲しいとお願いする。
     当時綾野氏達は土蔵を活用したまちづくりを模索していたが、なにを核にすればいいのか悩んでいた。そこで先進地である黒壁の、実践者の目で見た江刺の印象とまちづくりへのアドバイスをもらいたかったのだ。それでも笹原氏は動いてくれなかった。仕方なく勝手に花巻までの航空券を送る手段に出た。その結果笹原氏は重い腰を上げてくれたのだった。
     笹原氏が2度目に江刺を訪れたとき「黒壁ガラス館を出店してもいいぞ」という話になった。これは綾野氏の熱意とまちづくりを進めようとする仲間達の本気度を感じ取った上での発言だったと思う。江刺にとっては願っても無い話なので異論は無く出店をお願いすることにした。これを契機に江刺のまちづくりは大きく進展する。
     綾野氏達は受け入れの責任所在をはっきりするため、まちづくり会社の設立とガラス館の建設へ動き出すことになる。黒壁はまちづくり会社への出資、黒壁ガラス館江刺店で働くガラス職人の募集など出店へ向けての準備を進めていくことになる。
     
    写真4-1 当時のポスター
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  • 07/30/12--19:48: 江刺のまちづくり(9)
  • (2)まちづくり会社黒船の設立へ
     平成9年(1997)5月26日、まちづくり会社黒船が設立された。江刺に在住する当時20代から40代の11人が発起人となり、「中心市街地活性化」を目的として設立した。資本金4,600万円。後に2度増資を行い、現在は9,910万円となっている。株主は黒壁や常磐用紙など県外企業3社と地元企業の9社以外は個人で、総株主数は59名である。
     黒船設立までの2年間は市民会議として商店街活性化手法の論議を重ねてきたが、最終的に営利法人による活性化に意見を集約した。また、まちづくり会社をつくるべきだという黒壁笹原氏の後押しもあった。
     行き着いた結論は以下の3点。
    ①まちづくりはボランティアでは財政的に将来行き詰まるので、ビジネスとして有益をあげ、その財源を次の社会整備と会社運営に充てること。
    ②提言をするが、行政に任せきりにせず実施分野を分け、自らの分野はそれを実行するために自分たちが責任と経済負担を負うこと。
    ③まちの資源は蔵と商店街の路地、伝統芸能であることから資源を保存し活用すること。
     全国的にも衰退する商店街を活性化させた成功事例が少ない中で、彼ら自身、黒船の出船は難しい事業であり経営が安泰と言いがたいことは自覚していた。ただ、コミュニティビジネスによって活性化を進めたいという思いが強かった。

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    (3)この時期の町並みの現状
     この当時の町並みは、シャッターを下ろす店や移転する店も増えて、商店街としての機能は減少しつつあった。そんな中起死回生を図る目的で、活性化への取り組みが二つ成されている。一つは川原町・六日町地区、もう一つは中町地区である。この二つの商店街は写真で見るように隣接している。どちらも街路事業によるもので、道路幅員の拡幅に伴うセットバックkと商店街への新たな機能付加が計画の大きな主旨であった。しかし基本的な考え方が対照的だった。
     
    写真4-2 商店街の位置関係
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    南方熊楠関連の本をネットで検索中、写真の中に美人が写っているものがあった。
    熊楠よりこちらの方が気になって調べてみると白洲正子が50歳頃の写真だった。
    エッセイストとのことなので早速著作を確認し、購入したのがこの本。
     
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    「両性具有」とは一人の人間が両性を持っている事らしく、この著作では
    男色について書いている。
    男は少年期に男性の気質と女性の気質を併せ持っていて
    成長するにしたがって男性化していくと書いている。
    したがって稚児が昔から男色の対象となっていたらしい。
     
    かつてTVでネズミを使った実験を見たことがあった。
    ソ連の実験だったと思うが、箱の中に多くのネズミを入れて
    その生態を観察したものだった。
    ある一定の数を超えるとネズミたちは数を減らす行動にでる。
    更に数が増えると共食いを始めて数を減らそうとする。
    この結果から
    同性愛はこんな事が原因なのかと思っていた。
    しかし太古から菊花の契りが存在し、
    薩摩武士の「郷中」の中にも肉体交渉が当然あって、菊花の契りを結ばない
    男性は一人前に扱われなかったらしい。
    物事はそんなに単純ではないということか。
     
    読んでは見たものの、今ひとつよく分からないところがある。
    しばらく置いて、再読が必要。
     
     
     
     

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