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Channel: 風景のデザインブックⅡ
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江刺のまちづくり(3)

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(2)明治から昭和まで
 
 町並み形成に大きな影響を与えているのは大火である。岩谷堂の中心部は享保16年(1731)から明治39年(1906)の間に11回の大火に見舞われている。
 19世紀中期以降の大火は規模が大きく、中でも安政6年(1856)4月6日の大火は、焼失戸数が511戸に達している。横町で出火した火災は一日市町、中町、川原町、六日町を次々に焼き尽くし、さらには人首川を渡り、南町、餅田村まで燃え広がったといわれる。土蔵も120棟が焼失、死者は10人に上った。
 明治5年(1872)には六日町から出火し、342戸が焼失している。南町の多聞寺は南町一帯に大伽藍を形成していたがこの時に被災し全焼。再建されないまま現在に至っている。明治39年(1906)の大火は油(灯油)が水路に流れ出し大火となった。川原町、中町、六日町の450戸が焼失した。また、明治37年(1904)から39年(1906)までの3年間には5階の大火が発生している。これ以降大正、昭和と大火災の記録は見られない。
 火災のたびに町は新しい町並みを造っていった。岩谷堂の商人は物資や蓄財を守るため、苦労しながら火災に強い町屋や土蔵を建設したようである。聞くところによれば荒縄の端材の果てまでも大切にしたという。現存する町中の土蔵は、その殆どが明治゙39年以降に建造されたものと考えている。
 写真2-2は大正14年(1925)の岩谷堂である。土蔵造りの店舗が印象的ではあるが、町屋は妻入りと平入りの混在がみられる。
 
写真2-2 大正14年頃の岩谷堂六日町  (江刺郡志より)
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表2-1 大火の歴史
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 図2-3は昭和6年(1931)に作成された岩谷堂町案内図である。町役場をはじめとした公共施設や道路の位置が今とは違っている事がわかる。特に図の上側(東側)の米里、遠野方面へ向かう道路は、要害の崖を避けて人首川対岸の向山へ渡るルートとなっている。
 また、この図では黄色で示されているのが町の範囲である。江戸期の町割りと比べてもその範囲を超えていないように思われる。
 
図2-3岩谷堂町案内図(昭和6年) 江刺商工会議所復刻版
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 昭和30年頃の航空写真を見ても昭和6年当時とさほど変化はない。
写真2-3 昭和30年頃の江刺
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( 右上の杉林が松岩寺、人首川の上に南町、左下の工場らしき建物の場所は現在は甚句祭りが行われる児童公園。中右端には旧江刺病院(現ホテルニュー江刺)が見える)
 
 図2-4は現在の岩谷堂周辺の地形図である。赤い線で囲まれた範囲がおおよその江戸期の町割りを示している。高度成長期以降、町は江戸期の町割りの範囲を超え拡大し始める。初期は東西へ拡大したが、現在は大きな住宅地が建設された南側に広がっている。
 
図2-4 江戸期の町割り範囲と現在の町並み
 
イメージ 4
 
 

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