2)知名度の無さ
学生時代は東京で過ごしたが、出身地を聞かれ「江刺」と言うと、北海道出身と勘違いされた。岩手県の「江刺」より北海道の「江差」の方が格段に有名なのだ。高校の友人は北海道出身者のまま大学4年間を過ごしている。「江刺」の場所を説明する場合「東北本線水沢駅で降り、そこからバスで20分の所に岩谷堂がある」などと少々ややこしくなってしまうのだ。このことは私だけでなく、江刺出身者の60歳代から40歳くらいまでの世代の共通認識としてあり、故郷の知名度を何とか上げたいという思いが町づくりに向けられてきたと思っている。これがやがては駅名問題と大河ドラマの誘致および「えさし藤原の郷」の建設へと繋がっていく。
写真3-4 えさし藤原の郷(政庁)
3)地域経済の地番沈下
江戸時代の江刺は北上川舟運による物資の集散で栄えていた町だったのだが、昭和40年代後半から凋落傾向を見せていた。少々古いが昭和61年(1986)の商工会議所資料によれば江刺の民力度は0.711であり、買い物客が隣接する隣接する旧水沢市や北上市へ流出していた。旧水沢市は1.58で当時の求心力は強力だった。さらに日本全国で見られるように江刺近郊でも郊外に大型店が出店し、人の流れが中心市街地から遠のくようになっていった。それなりの努力をしてきたと思われるが、時代の流れに対応する力と資金が欠けていたためか、やがて中心商店街はシャッター街と化してしまった。
これまでまちづくりの原点を3つ上げて述べたが、細かく見ればさらにたくさんあるだろう。だが、この3点は旧江刺市民にとって大いなるコンプレックスであった。駅がない市などと揶揄され、弱い経済地盤を皮肉られ、知名度の無さに落胆する日々。いつまでもこれではいかん、何とかしなければとの思いを常に持ち続けていたはずである。かつて駅への連絡をつけるために様々な手を打ってきたことでもわかるように、まちづくりに関して他市町村より積極的であるのはこのような理由があったからだと考えている。